本多勝一さんの著作に導かれて『チョムスキー』を読むに至った方々へ

本多勝一さんと言う方の『アラビア遊牧民』、『ニューギニア高地人』、などに始まり、『貧困なる精神』や、『先住民族アイヌの現在』、イザヤ・ベンダサンこと山本七平との、本多さんの圧勝に終わった議論などを、非常な共感を持って読んだ事のある一読者として書かせていただきます。

本多勝一さんがその著書のあちこちで田中克彦氏の『言葉と国家』などに言及しておられるのは皆さんご存じだと思います。「田中克彦『チョムスキー』に驚く」の中で、私もそれらの著書の基本的視点は貴重なものであると書いて置きましたが、少数民族の言語の存亡、母語と国家の対立などに関する田中氏の基本的姿勢は大変にありがたいものだと思います。

言うまでもなく、個人が否応なく生まれついた環境で身につける言語が、いわれのない差別を受けたり、他の個人語と比較して劣ったものであるかにみなされることは、悲しむべき事で、恥ずべき本質的無知に基づく行いであります。

個別の言語を権力から守らなければならない。少数民族の言語が危機にさらされている状況は憂うべきだ。学校教育において国家の採用した言語スタイルが学習者の意図に反して押しつけられるのは悲しい事だ。全て完全に正しい意見です。これらに反することがあるとしたら、それは糾弾されねばならない。

本多さんの著書によって(こうお呼びするのををアイヌの方々に許していただけるならば)アイヌ系日本人言語学者・知里真志保さんや同じくアイヌ系民俗学者萱野茂さんの事を読んだこともあり、知里先生が日頃は温厚な方なのに、事アイヌ語のことになると友人である金田一京助さんの著述にも別人のようにしつこく、細かく、あえて言えば意地悪な表現で追求された話などには胸を塞がれる思いがしました。その心性については、もっと言いたいことがあるのですが、何を書いてもむなしいし、安易な想像で触れていいようなものではないので書きません。萱野茂さんの『アイヌの碑』を読んで、この方がたが受けてきた仕打ちを思い、言葉にならない悲しみを覚えたこともあります。

個人の言語は他者に侵犯されていいようなものではない。個別言語に優劣はなく、商業的・政治的目的、あらゆる当人の望まない目的での侵犯は許されるものではない。「当人の望まない目的の侵犯」とはおかしな言いぐさで、「当人の望む侵犯」は矛盾するのだから当然のようですが、経済的発展のためにあえて公用語を外語に設定する少数民族の判断などは、言語学的問題ではすまなくなるだろうからこういう言い方になりました。個人や民族や一集団が、主体的決定として外語を選んだときに、単に「守れ」と言うだけではコレクター趣味とそしられても反論が出来るものか分かりません。

そしてそれ、個人語の等価性は、言語学が前世紀に入って獲得してきた認識で、生成文法の「個人の言語能力探求」というプログラムにおいては、言うまでもないほどの前提となっていることであります。どの言語も、どの方言も、どの個人語も、等価に扱われなければなりません。「方言」をある意識に基づいた表現であるとする人もいて、確かにそれは文脈によってはあり得るのですが、術語として用いました。なお、これは言語学では常識ですが、全ての個人語は「方言」です。「中央語」や「標準語」は、人為的、社会的、経済的な分類に過ぎません。余談ながら田中氏は「生成文法は国家語しか/印刷言語しか対象にしない」という趣旨のことを書いておられましたが、全くの的はずれです。そもそも「国家語」という田中氏がよく使われる語彙の定義が不明です。また、「印刷言語」とはこれまた何のことなのでしょう?生成文法の論理装置には、音韻表示のレベルであるPFという表示レベルが設定されていますが(このレベルは、手話の場合は身振りによる「音韻」と呼ぶべきものを表示するレベルになります)、「印刷」などの概念は出てくることすらありません。

さて、田中氏は上で触れたような、それ自体は全く正しいし、守られてしかるべきである個人の尊厳にもつながる事柄を、色々な書物で紹介しておられます。それ自体は文句を言う筋合いは全くない、言語学が到達した観点の流布であり、勧められこそすれ、反対するいわれはありません。

しかしながら、誰が見ても正しいとしか言いようのないこと、反対することがすなわち人格や見識を疑われかねないことを主張するのは、学問的にはどうなのでしょう。もちろん田中氏が学問外のまさに生きた運動として少数言語、そして何よりその使用者の地位改善のための運動として発言をしておられるのなら素晴らしいことです。しかし、絶対に安全な場所で良識ある人達の賛意に守られ、概念的には決着済みの問題を繰り返すというのはどういう事でしょう。しかもそれが、一般書の形で言語学的基礎のない読者を対象に書かれ、先に触れたファイルの中で書いたように、各論的データの確証が無い場合は。出典や参考文献が示されないのはなぜなのでしょう。興味を持った読者が出典に当たることはほぼ不能なのです。「善意」の陥穽は悪意のはっきりした虚偽より危険です。そして「誰も文句を付けられないほど正しい」事を声高に繰り返す人が、常に反証可能性の前に置かれ、試され続けているような研究に全く不合理な難癖を付けるというのはどういう事なのでしょう。

もし仮に、田中氏の取り上げるエピソードに一点でも曇りがあるならば、悪いことにそれ自体は全く正しい根本的主張さえ疑う口実が出来てしまうのです。「口実」と書いたように、そんな疑いは論理的ではないのですが、権力装置がプロパガンダを広めるときには、それらしいというだけで十分です。ですから、田中氏が現代言語学の知識をほとんど持たず、または認めず、非論理的な難癖を付けていること、他の書物においても出典が明らかでないことは相当の弱点なのです。言語学が到達した「個人語は等価である」という認識が、田中氏の虚偽と心中するのを見たくはないのです。

本多勝一さんも、『日本語の作文技術』の中でだったと思いますが、チョムスキーの言語学書を引用し、きちんと参考文献に挙げておられます。また、今は読んでいないのですが(最近また読み始めました)、創刊当時の『週間金曜日』読者欄に、田中克彦氏の『言葉と国家』を推薦する投書があったのも、全てとは言いませんが、本多さんが田中氏を援用されていた影響があるのではないかと思いました。

ジャーナリストである本多さんがきちんと参考文献を示しているのに、『チョムスキー』ではそれが無く、学術的著作としてはその段階で欠格としか言えないのです。では一般書として評価すべきなのか。残念ながら別ファイルで書いたように、間違いと虚偽が多すぎて、とても勧めることは出来ません。そもそも学術書として読まれないことを想定しているのだとすると、いったい誰に向けて書かれた本なのか。『チョムスキー』というタイトルに興味を持って読んだ言語学を専門としない人を対象とする本なのでしょうか。だとしたら誤解と嘘に満ちた批判書は適切なものなのか。そもそも「岩波現代思想家ライブラリー」の一冊として、紹介書的な内容が期待されそうなものを、なにゆえ批判書(批判になっていないのですが)が出版されたのか。あれほどまで当該分野の知識のない人がなにゆえそんな仕事を受けたのか。参考までに付け足しておきますが、「岩波現代思想家ライブラリー」では、私が知る限りでは、ハイデガーにしろヴィトゲンシュタインにしろ、解説を書いてしかるべき方が著者に選ばれているようです。もちろんこれは、門外漢の勘違いかもしれませんが、少なくとも当該分野において業績のある方々であったと記憶しています。

仮に個別言語の独立性を訴える一般書にデータの誤りがあったとしても、被害は軽微です。それでも読者を馬鹿にした話だと思いますが。しかし、特定の理論について、非専門家のみに対する虚偽を書くのはどういう事なのか。「非専門家のみ」と書いたのは理由があります。現代言語学を少しでも知る人であれば、『チョムスキー』の虚偽に気が付くことは当たり前で、田中氏が主張しているように「チョムスキー派の言語学徒の間では焚書扱い」などと言うこともなく、単に憐れみを持って黙殺されているのが実情です。しかし、一般によく読まれているようであれば、その虚偽を指摘する責任が、少しでも事情を知るものとして、あると私は思った次第です。

本多さんの読者のかたにお願いがあります。本多さんは著書中で、チョムスキー、田中、どちらの著作にも言及しているので、その後田中氏の『チョムスキー』についての何らかの反応があったのかどうか知りたいのです。これは単純に、「事実」を重視するジャーナリストとしての本多さんの仕事に一定の敬意を持つゆえに、もし本多さんが『チョムスキー』について何か発言しておられれば、ぜひ知りたいと思うからです。メールでお知らせいただけないでしょうか。

念のために書いておくこと:私が読んだ限りでは、と言っても最近のものは読んでいないのですが、本多さんは『チョムスキー』については発言しておられないようです。(2013/03/20「週間金曜日)」の編集の方から連絡があり、本多さんは「チョムスキー」については発言なさっていないそうです。また、近々手紙を頂けることになりました)


最近『戦時下のイラクを行く』を読みましたが、「母語」に言及されるときに、以前は田中克彦氏の本を参照するように後註でよく書いておられたのが見られなくなっていました。同書内では、チョムスキーを「良心的アメリカ人」として示しておられます(08年 8月 8日 金曜 追記)。

08年 8月25日 月曜追記

現在、週間金曜日の方とメールで連絡を取って、本多さんにこのページと、『チョムスキーに驚く』をプリントアウトしてお送りする約束になっています。経過は、後に御報告できると思います。『金曜日』の担当の方の、こちらからの突然のメールに対するお返事は、たいへん素早く、また、丁寧な内容であったことを付け加えておきます。
2013/03/18追記。今朝方「週刊金曜日」の編集者の方から電話があり、このファイルと「チョムスキーに驚く」をプリントアウトして本多さんに渡してくださるそうです。お待ちしています。

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Last update:08/ 8/25 Mon