へらさけ雑記2






私生活のよしなしごとで長らく更新を怠っていたへらさけ雑記ですが、ここに再び馬鹿文をつづることにしました。内容は以前通り雑多なものになると思います。

目次です

肝炎入院記
北柏の奇跡
電動自転車のヨロコビ
高熱とワタシ
深層構造を巡る田中麗奈としてのおすぎとピーコ
ワタシは喫煙者であるのだが




肝炎入院記

2001年7月18日から不定期に書き続けます

私は今年(2001)2月に劇症肝炎で危篤状態になり入院した。客観的な記録はここが詳しいが、ここでは思い出し思い出し当時の自分と考えたこと、感じたことを書いていこうと思う。

とりあえず今日は書くぞ!という意思の表明のためにここまで。上でリンクしたサイトと比較してみるとかなりおもしろいかもしれません。面白がっちゃいかんのだが。暇を見て、そして思い出すたびに書いていきます。

2001年7月25日

ふと気が付くと私は無重力の治療室にいた。多分人工衛星上にある特殊な医療施設なのだろう。その証拠に私はベッドにベルトで固定され、出入りする白衣を着た人たちは皆重力のない環境なればこその動きをしている。壁に垂直に立って歩いてくるのだ。

01/12/27 Thu

自分がどこにいて何をしているのか分からないまま時々意識が戻った。戻ったと言ってもモジュールすべてが戻っているのではなく、かろうじて自意識と錯誤に満ちた外界の認知があるだけだ。俺はどうやら今度は地下のトレーニングジムにいるらしい。紫外線灯のもとで中学生ぐらいの女の子がバスケットをやっている。話を聞くと、もうこの地下の施設に2年もいるので、紫外線のもとでの運動が欠かせないのだそうだ。

俺が呼吸器の苦しさに耐えかねて呻いていると彼女がやってきて言った。「私もずいぶん長いことここにいるけど、ここではここの時間の過ごし方というのがあるの。あなたも苦しいだろうけど、このマニュアルを読んでおいて。私もそれで乗り切ってきてるの」

それから彼女は生体モニターの読み方を教えてくれ、また学校へ行けないから勉強を教えてねといってまたバスケットに戻った。

読んでくださっているかたはもしかすると最初から分かっていたかも知れないが、実はこの女の子のエピソードは全くすべて私の幻覚である。それが幻覚であることを妻に知らされたときの驚きといったら無かった。P.K.Dickの世界ではないか。映画"Matrix"のようでもある。しかしなあ。あれが本当に幻覚だったなんて。今でも実は、あの世界にリアリティを感じてしまうのだ。

02/11/21 Thu

記憶から消えてしまう前に書いておきたいのは、深夜の喫煙所の事だ。個室から4人部屋に移り、しばらくして胸の静脈からチューブが取れると緩やかな回復を待つだけの日々がやってきた。深夜に別の階にある喫煙所に若い患者達が集まるのだが、全員が難病に犯されていた。私の劇症肝炎なんて風邪に思えるほどの重病患者達がいた。脳腫瘍、白血病、肝臓癌(これはポピュラーと言っていいほどの人数がいた)、原因不明の下肢麻痺、神経系の伝達不能、などなど。他に小児肝臓癌、小児白血病などの子供達の若い親たちがいた。

毎晩喫煙所に集まってぎりぎりのジョークで一瞬だけ恐怖を忘れようとする人、とにかく同じような状況のものでなければわかり得ない話をする人。疲れ切った小児難病の親たち。脳の深いところに腫瘍が発見され、放射線治療で髪が無くなったプログラマー。皆それぞれに闘う覚悟が出来ていたので平常時では見られないテンションがあった。

そうして幾晩か過ごすと、昨日までいたあの人が今晩はいないということに何度か気が付く。皆その話を避けているのだが、そのうち事情が分かってくる。「地下から帰った」のだ。

地下には霊安室があった。病院だからその施設も死者の多さも当然ではあるが、血液の状態がまだ戻りきらずどこかふわふわしていた自分には衝撃的だった。


03/ 9/ 5 Fri

喫煙室のみなさん。どうしていらっしゃいますか?

私は幸いにもこうして生きています。もう会えなくなった方も多くおられるのでしょう。でも私はあなた方と話した時間を忘れることはありません。ありがとうございました。

「99%駄目だって言われてるけど、俺は戦うよ。だって1%があるんだから」

そうおっしゃったお名前も記憶していない40台の男性。生きていておられることを痛切に身を切られるような思いで祈ります。そのお言葉に私は励まされました。




北柏の奇跡

2001年7月18日


私は酒もたくさん飲んだが珈琲も好きである。アルカロイド系などのものはたいてい好きなのかもしれない。中毒になりやすい性格なのだろうか。明日をもしれぬ命なのだろうか。ある意味パトラッシュなのだろうか。ネロはどこだ!ネロは!

自分で豆を買うようになったのは中学の頃だった。そのころはまだ町の喫茶店の珈琲の味が本物だと思う無邪気さだったので、すでにペーパー用に挽かれた豆を買ってきて「俺って本格派?」などと自己満足していたものである。

さすがにそれから数年たって味が分かるようになると、豆を選ぶようになった。一番のお気に入りは三年寝かしたオールドビーンズである。これを二人分の量使ってデミタスカップにトップノートだけを落とし、後は捨ててしまうという贅沢きわまりない飲み方を好むようになった。

都内神保町に御厨さとみの漫画の中で「三つの指輪」として出てくるオールドビーンズ専門店が今でもあるが、10年ほど前はそこが最高にうまいと信じていた。

数年前に「三つの指輪」に久々に行ってみたが、以前の記憶ほどうまくはない。

ある人の話によると、そもそもオールドビーンズは大量に出来るものではないのに、最近は町中の喫茶店がオールドビーンズを謳っているのは状況的におかしいとのことだ。つまり何らかの化学的操作が入っている可能性すらあると言うことだ。

もうあの味は飲めないのか、と悲嘆にくれていたのだが、偶然北柏のStream Valleyという珈琲・カクテル専門店で驚くほどうまい一杯に出会った。(今日は時間の都合でここまで。マスターのご承諾を得て写真も撮ってきてますので近々載せます(これはその一例)。チャンネルはそのまま、次回を待て!)



電動自転車のヨロコビ

01/ 9/28 Fri

近所に心臓破りの坂がある。長さは100メートルにも満たないだろう。しかし勾配は20パーセント程もあるのではないか。見た目には壁である。幅は狭く、上る姿勢で左が旅館、右が竹林。軽自動車が下ってくるのは見たことがあるが、上るのはさすがに見ない。オートバイで上るときも、「ルートを確保」しないとエンジンが悲鳴を上げる。そもそもが「私道につき通行禁止」の立て札が下りの入り口に立っているぐらいで、短距離ながらブレーキが焼き付きかねない難所なのだ。エンジンブレーキはまず当てにならない。おまけにこの坂は二重コーナーになっていて、下りが一段落したと思って気を許すと右へほとんど直角に折れ、その出口がまた急勾配の下りになっているのだ。何かのテストコースか!

私は2001年2月に死にかけて入院した。2ヶ月の間死ぬか生きるかどっちかというと死ぬな、の状態だった。最初の10日程はほぼ絶望の状態でICUのチューブの茂みに埋もれていたのだ。

そんな中我がニョボはこの坂を行き来したのだ。昨年(2000)11月に生まれたばかりの息子を乗せたバギーを押して。

最近電動自転車を買った。たいしたもんである。最初はもっと重い(すなわち速度が稼げる)ギアが欲しいと思ったのだが、そうするともはや自転車のスピードではなくなってしまうだろう。夜間走行で気になる視認性も、前輪の例の重い発電機が全く気にならないのでOKだ。バックミラーがないのがちょっと不安だが、それはエンジン付きに乗り慣れた習性、振り向き視認したほうが他の車両にもわかりやすかろう。オートバイでも「見えていても振り向き視認」で意志の伝達をすることはままある。オートバイのつもりでフロントブレーキを多用する癖も10分も乗れば修正される

久しぶりに乗る自転車は肉体が足の動きそのままに自然に加速される感覚を与えてくれた。電動という感じがない。気づかぬうちに助けられているのだ。四輪はもちろん、オートバイとも違う。オートバイの魅力は、加速力と狭まる視界、とぎすまされる五感、そのあたりにあると思うのだが、自転車がくれる物は日常的な自力走行のヨロコビであった。

心臓破りの坂をその自転車で上ってみた。立ち漕ぎするまでもなくすいっと上りきってしまった。偉いぞ、自転車。



高熱とワタシ

01/12/25 17:11

先日は大変ご迷惑をおかけしました、と言えば心当たりのある方々がたくさんいらっしゃるだろう。この2週間ほど内臓から来る高熱のためワタシは毎日のように幻覚を見、また自らの死期を勝手に悟って知り合いの方々へ電話やメールを出しまくったのだ。

幻覚はすさまじくリアルだった。6年前に自殺した友人がワタシの枕元でにこにこと笑っていた。妻に「君に会うのははじめてなんだから、ちゃんと奥さんとして挨拶してくれ」と迫ったりした。また、1歳と3歳で死んだ兄たちがやってきて「行こうよ」と誘いをかけた。それを妻に言うと、「自分はちゃんとこっちで生きると言ってください」とごくまっとうな事を言ったのだが、ワタシは「1歳と3歳の子が寂しそうにしてるのに、そんなことが言えるわけがあるか!」と怒ったりもした。

あまりの状態の悪さに不安になった妻に連れられて医者に行ったら実は入院を勧められたのだが、今年はもう三回も入院しているから、これ以上妻に負担はかけられない。もっとひどくなったら入院しますと逃げた。

今は医者に行ったときの記憶はほとんど無い。相当ヤバイ状態であったのだ。

部屋は常に巨大な花が宙を飛び、それらが妙なる歌を歌っていた。

今熱が下がっても、あれが本当に幻覚だとはとても思えない。特に死んだ友人達の笑顔には涙が出る思いをした。

この世の別れとばかりにあちこちに電話したが、皆様本当にご迷惑をおかけしました。俺は夢のように死ぬなんて贅沢は許されないのです。好きなように生きてから死んでも遅くはあるまい。まだやることはたくさんあるのだ。



深層構造を巡る田中麗奈としてのおすぎとピーコ

02/11/ 7 Thu


究極のオープンソースとウィルスとしての俗説

この文書を読んでいる方は何らかのOSの上で動くソフトウェアを介して読んでおられるわけでありますね。印刷するという面倒なことをするキトクな方がおられれば話は別ですが。単体のプログラムでマシンの制御から通信、ブラウジングを行うひとは論理的可能性としてはあってもいるわけがないとします。

さて、そのソフトウェアは言うまでもなく何らかの「コンピュータ」と呼ばれるハードウェアの上で走っているブラウザであるわけで、この意味であなたはハードとソフトのユーザであるわけです。

お使いのブラウザやOSの調子、ハードウェアの速度はどうでしょう。ユーザであるからには使ってみて始めて分かる事がいろいろあるのが理解出来るでしょう。

導入してみたけど思ったより使いこなせない、いや、おそるおそる使ってみたけどなかなかどうして便利じゃないか。いろんな感想があるでしょうし、中には買っては見たが全くなじめず、あんなに高価なマシンが机の上や部屋の隅でホコリをかぶっている、という方も、、、いやここではとりあえずこの文書を読んでいるあなたについて語っているのだから、この事態はあり得ないのか。

さて、あなたはオープン・ソースという言葉を聞いたことがあるでしょうか。ソフトウェアの世界において、コンパイルする前の言語コード(すなわちソース)をそのまま公開し、誰でも改良が加えられるように、そして不具合を見つけられるようにしたものだと言っていいと思います。例えばLinuxなんてその代表で、毎日毎日世界中のパワー・ユーザが不具合を修正し、新たな提案を公開された形で行ってくれているので、非常に安定したものが入手しうる状況になっています。こんな事は私がいまさら言わなくても世間に情報は満ちていますね。ついでにOpenOfficeをリンクしてしまおう

これは非常に有り難い状況であると思います。世界中のユーザが様々な状況下で同じプログラムを使用して、その結果をフィードバックしているおかげで、24時間365日連続稼働させても落ちない、そんな頑強なシステムが出来ています。

などと言いつつ私は今このファイルをWindows上で制作しているのですが、これは単に怠慢と今までの環境に慣れてしまっているせいで、じゃあ偉そうにオープン・ソースについてしょーもない能書きをたれるなと言われれば一言もありません。

さて、世界にはオープン・ソースの究極とも言える領域があります。それはあらゆる明示的科学的研究の世界です。そこでは日々世界中のパワー・ユーザがお互いに提供しあう情報を元に、新たなソフトウェアを制作しています。そこではソース・コードを隠すということはしてはならないし、他人の書いたソースを自分のものだと主張したり、ウィルスを作り、それを他人名義で流す事は許されません(本来的にはそうでなければならないのですが)。

私がたまたまほんの少しだけユーザとして触れている研究領域に、「深層構造」というソース・コードがあります(正確にはありました、です)。これは実に困ったことに、全く同じ名前のウィルスの方がサーバの外で有名になってしまい、更に悪いことにはまともなソースの作成者がそのウィルスの作成者であるというとんでもない汚名を着せられ、一般ユーザや、場合によってはユーザですらない人に要らぬ誤解を与えてしまっている状況もあります。もちろんこのソースが作成されたサーバの中では、皆「困ったものだ」と言いながら「基本的にはワシらの活動に影響はないからほっとこう」という対処がとられています。

前置きが大変長くなってしまいました。なぜ長くなったか。私はびびっておるのです。この、長い間マスコミ的誤解に晒され続けてきたタームを説明するには私なんぞの言葉では更に新たな「ウィルス」を作り出してしまうのではないか、というおそれがあるからです。ですから、以下の文責は全て私にあり、解釈も全て私個人のものであるということを断った上で語りたいと思います。

静的知識の記述

チョムスキータイプの生成文法において目下研究されているのは静的言語知識である。興味のある方はどこかで目にされているだろうが、

1) 言語知識の実体はどのようなものか
2) それはいかにして獲得されるか
3) それはいかにして用いられるのか

のうち、特にチョムスキー達が行っている研究は1)に対するものだ。

ごく当たり前の目標のようだが、ここで見落としがちなのが、この研究では1)と3)、つまり言語知識と使用が明確に分けられていることだ。更に言語知識は静的状態と見なされ、使用という時間を伴った現象とは切り離されている。

これもまたどこででも目にすることが出来るモデル図だが、

4)

   D
   ↓
   S
  ↓ ↓
  P   L

や、

5)深層構造→表層構造

のような図がある。どの入門書を読んでも載っているものである。

このモデルは上で述べた1)の言語知識の実体を示したものであり、3)の使用モデルではないことに気を付けていただきたい。


上で述べたように、このモデルは静的状態のモデルであり、使用モデルではないので、そこに「使用」に伴う「時間」の概念は含まれていない。何か思いついて、それを言語にマップする、というようなプロセスとはそのままでは無縁のモデルである。そのような使用モデルは、この静的モデルを内包するものとして想定されている。そして、「思考」に関して言えば、また遥かこのモデルの及ばない複雑なプロセスであり、どのように言語システムと連携させるか、させうるのか、は将来的問題だ。お気づきのように、ここでのモデルは既に古典的言語決定論、つまり「言語が思考や認識を決定する」という説とは完全に無縁だ。これは既に認知科学上の常識である。ごくごくインフォーマルな例として「言葉にならない」思考や気持ちや、名前のない対象の認識を考えてみていただきたい。(これはあまりにインフォーマルすぎてそのままでは反例にならないのだが、少なくとも「言語が思考や認識を決定づける」訳ではない事の身近な例として挙げた)


時間の除外とウィルスにおける誤謬

深層構造という偽名を与えられたウィルス(つまり俗流解釈)の最大の問題点は、それを含む静的定義モデルが、ほとんど常に「使用モデル」であり「時間的派生関係」を示したものであるかのように捉えられていることだ。ひどい場合には「思考から発話まで」の産出モデルとする誤解まであるcf.東大出版会「知の技法」それにしてもあれはひどい本だった。どこが「知」なのか判然としない内容。悲惨であった。

以下はそのような誤解ではなく、使用に伴う時間概念を完全に取り除いた静的モデルの話として進める。

4,5)と全く同様に、「句構造文法」において使われる式、

6) S→NP VP

なども時間的概念を含まない。

これは、
8) 1+1=2
9) ∀x(F(x)→∃(y))

などにおいて、"="、"→"が時間的概念ではないのと似た事情である。これらは論理的関係に過ぎないのだ。

ウィルス版の「深層構造」はほとんど全てこの関係を誤解した上で流通しているものである。

それではそもそも「深層構造」やD-Structureという概念がなぜ理論に導入されたのか、言い換えれば「文の表示」としてなぜ一つのレベルではなく、複数の表示のレベルが導入されるに至ったのか。(ここでは最低限の誤解にしか触れないが、「文の表示として複数のレベルを認める」と言うことについての誤解もまた流布している。「表層」を文とみなし、それ以外の表示を単なる手続きとして捉える誤解である。そういうことではなく、複数の表示が集合として「文の表示」であるという主張がなされているのである。{深層構造、表層構造}、{D, P, S, L}のセットを「文の表示」と考えるということだ。また、これもよくあるのだが、深層構造やLを「意味」であるとする誤解もある。そうではなくて、これらは意味解釈を受ける統語表示であるに過ぎない。ここでの誤解はおそらく「解釈」を人間の日常的解釈と捉えたため生じたのでは無かろうか。ここで言う解釈は、写像とか「一表示を他の表示に置き換える」と言う意味でのparsingと捉えた方が誤解が無いと思う)


超小型「言語」での変形規則と深層構造

文の表示としてなぜ複数のレベルが必要とされたのか。

答えはもちろん「その必要があった」からだ。

例えば6)の式を用いて、「文」を定義/生成するとしよう。以下は私によって簡略化された文法。

6) S→NP VP

ここで定義されているのは、S(entence)という記号はNP(Noun Phrase)とVP(Verb Phrase)の二つの記号からなるからなる順序対に書き換えられる、と言うことだ。

これに、

10) VP→V NP
11) NP→{John,Mary}
12) V→{loved, killed}

の規則が付け加えられたとしてみよう。そうするとこれらの規則群が生成出来る文は、
13)

a) John loved Mary
b) Mary loved John
c) John killed Mary
d) Mary killed John
e) John loved John
f) Mary loved Mary
g) John killed John
h) Mary killed Mary

の八つがあることになる。つまり{6,10,11,12}の規則群が生成出来る文の集合は(13)の文集合であるということだ。以下では表記上の煩雑さを避けるために省略するが、文表示という時には今までに挙げてきた句構造規則の生成する句標識も含んだ表示を意味する。つまり、例えば
13)a John loved Mary は、正確には
13)b [S [NP John] [VP[V loved] [NP Mary]]]
の表示を受ける。終端連鎖、この場合は語彙の列を文とみなすわけではない。


これだけで済めばこの規則群とその生成する文集合は何の破綻もなく、この「言語」は完結する。内包的には{6,10,11,12}の規則群として、外延的には13)の文集合として。しかしながらここで、次のような文も定義したいと考えたとしよう。

14) Mary, John loved

いわゆる話題化構文と呼ばれる文であるが、言語(この場合は英語)を記述しようと言うときに、14)を定義出来ない、すなわち非文と見なしてしまうようなシステムは作りたくはない。最終的に目指す完全に記述されたシステムは過不足無く可能な文を生成出来なければならない。今のままではこの超小型文法システムは14)を生成出来ず、過小生成(under-generation)しか出来ないシステムということになる。

どうしたらいいか。論理的可能性としてはいくらでも規則群の改編が可能だ。一つには、6)、すなわち

6) S→NP VP

に加えて、

6') S→NP NP VP

という話題化構文用の句構造規則を作ることである。ここで6')として、S→NP NP VPではなくてS→NP NP Vを用いたらどうか、と思われた方は、その場合も含め、規則9)の動詞が増えた場合を、また、下で述べるような同定保証システムをどうするか、を考えてみていただきたい。面白いパズルになると思う。また、S→NP NP Vを義務的規則とするか、それとも6)の規則とは優先度の違いや理論内の位置の違いがあるとするべきか、問題は非常に入り組んでくる事に気が付かれるだろう。

この規則を6)と入れ替えると規則群はどのような文集合を生成するだろうか。

15)

a) John John loved Mary
b) Mary John loved John
c) John John killed Mary
d) Mary John killed John
e) John John loved John
f) Mary John loved Mary
g) John John killed John
h) Mary John killed Mary
i) John Mary loved Mary
j) Mary Mary loved John
k) John Mary killed Mary
l) Mary Mary killed John
m) John Mary loved John
n) Mary Mary loved Mary
o) John Mary killed John
p) Mary Mary killed Mary

これらは、人工言語としてならもちろん可能だが、記述の対象である英語システムの出力とは認めがたいものだ。今度は6)の替わりに6')を義務的規則として含む超小型文法システムは過剰生成(over-generation)を起こしてしまっている。

そうすると6')の導入が間違っていたとして却下するか、それとも6')に加えて更に規則を増やすべきなのか。どちらも探求に値する。GazderらによるGPSGは、句構造規則を拡張する事でこれらの事態に対処した。その場合、Vの後ろにあるNPを「削除」し、同時にそのNP情報を何らかの方法で文頭のNPと同じであると保証するシステムが必要で(GPSGの場合はSlash Feature, FFP, etc.などの木構造の上を情報が伝播するシステム)、以下で述べる変形規則とどちらがコストがかかるかは経験的問題である。

Chomskyは6')を導入する替わりに、「変形規則」を導入した。ここで例として出す規則は全て簡略化し、informalな記法である。

16) [NP [ V NP]] の終端連鎖があれば、随意的に[NP [NP [V]]に書き換えよ

これが以上述べてきた規則群からなる「言語」システムにおける「変形規則」である。


16)を加えた規則群は今度は正しく、13)と15)の文集合を出力する。

15)

a) John John loved
b) Mary John loved
c) John John killed
d) Mary John killed
e) John John loved
f) Mary John loved
g) John John killed
h) Mary John killed
i) John Mary loved
j) Mary Mary loved
k) John Mary killed
l) Mary Mary killed
m) John Mary loved
n) Mary Mary loved
o) John Mary killed
p) Mary Mary killed

13)

a) John loved Mary
b) Mary loved John
c) John killed Mary
d) Mary killed John
e) John loved John
f) Mary loved Mary
g) John killed John
h) Mary killed Mary

そして、16)の入力となる記号列のなす構造を「深層構造」、出力を「表層構造」と呼ぶことにしよう。ここまでで明らかだと思うが、この深層構造は深層心理とは何の関係もない。「何となく思った事柄」のように、「思考」と結びつけてすら解釈されうるものでもない。文集合定義において必要だとして理論に取り入れられた表示以外のなにものでもない。

以上非常に簡単にではあるが、深層構造とはそもそもどのようなものであると見なせばいいのかを説明した。何だこれだけのことか、という拍子抜けした感想をお持ちかも知れない。もちろん彼らの書くものははるかに複雑でこみ入っているし、同時にはるかに洗練されたシステムになっている。しかし「深層構造」が導入されたのは基本的にはこういう論理によってである。これを「深層心理」や「何となく思われたこと」と解釈する方が難しい。ある種のnon-userの発言を読み、絶対に原典を読んでいないと思われるのはこのためだ。

始めに書いたように、これは全て私の解釈、理解によるものであり、本当にChomsky達がどのような意味でこれらの理論的道具を使っているかは、彼ら自身の書くものに当たっていただくほか無い。そして今興味を持って勉強したいと思っている方がおられたら、彼らの書くものによってしか彼らの説に対する意見を持つべきではない。もちろんこのファイルのみに発するすべての誤解の責任は、言うまでもなく私にある。

上での記述では、「深層構造」という名前に合わせて、1950年代のチョムスキーモデルを簡略化して説明しています。よって、I-LanguageであるよりはE-Languageの説明になっています。Aspects以降の語彙挿入や心的辞書、GBにおけるD-Structure、S-Structure, LF, PFの集合として、個別のレベルとしての性質及び関係、その他の原理群、Minimalist ModelにおけるD及びSの廃棄、すべての過去のモデルにおいての解釈規則や原理群などには一切触れていません。また、13,15)においてCondition C違反になる文が出力されますが、ここでは無視しました。


そして


導入してみたけど思ったより使いこなせない、いや、おそるおそる使ってみたけどなかなかどうして便利じゃないか。いろんな感想があるでしょうし、中には買っては見たが全くなじめず、あんなに高価なマシンが机の上や部屋の隅でホコリをかぶっている、という方も、、、













ワタシは喫煙者であるのだが
02/12/13 Fri


我々の喫煙文化は喫煙者に甘過ぎやしないだろうか。受動喫煙に対する嫌悪感を表明することすらあたかも度量がないとかけちくさいというそしりを受けかねない常識がはびこっていないだろうか。喫煙の害に関する情報が、探せば容易に手に入るものでありながら、何となく言ってはいけないこと、仕方のないことのようにみなす風潮があるのではないか。

いきなり何を言い出したかというと、ワタシは喫煙者であるので、非喫煙者というか、依存に陥っていない健康者の煙草への正直な気持ちの表明である嫌悪感や忌避感、全く正当でしかない憎悪に触れて、非常に居心地の悪い、耳が痛い思いをすることがよくあるのだ。ではなぜこんな事を書き始めたかというと、喫煙者である自分が言う分には「非喫煙者の偏見」といった、それこそ偏見でしかない喫煙者擁護の為の反応を受けるいわれは無いからである。こういう事は哀れにもニコチン依存という精神・肉体・社会の三面で病的な状態に陥っている人間が言うべきなのだ。なにより諸々の害を身をもって知っているのはニコ中だ。

いやもう煙草ってねえ、全くいいことないですよ。悪いことしかないですよ。リラックスに欠かせないという人もいますが、それはシャブ中がシャブ打ちこんで一息ついてるのと変わらないです。

依存者というのは依存を続けるためならどんな理屈でも思いつくし、言葉の力や暴力的な方法で周囲と自分をごまかすことなんか朝飯前です。何しろ依存している状況を続けること自体が自己目的化しているわけで、強度の依存は生存の欲求をも乗り越えることがあります。

煙草は文化だという人もいますが、全ての依存物質が文化的色合いを帯びるのであって、ひとり煙草の手柄ではありません。阿片窟やシャブ中のぶち切れ具合すら美しく物語り描くことは人間には造作もないことです。破壊的行動や破滅すらまさに麻薬的な美しさをもって描写されて来ているではないですか。文学や芸術の力というのは計り知れないから、何だって美的価値を与えてしまうことはある。

文化という名前は人間が行うことなら何にでも貼り付けられるレッテルであって、それは確かに文化でしょうが、そのことが事態を正当化するわけではありません。少数民族の文化保存という時の文化と、喫煙文化の文化ではまるっきり色合いも重みも、多分認識的カテゴリーも違う。両者を並列に並べるような言い方は言葉遊び以外の何物でもない。

ええ分かってますわかってます。皆さんそんなことはご存じで、だからこそ健康な人たちは喫煙に対して正当な批判をお持ちなのですよね。もう分かってるんです。だからこそワシらはビョーニンなのです。多分後一世紀もすれば、昔は阿片窟などというのがあって、その後にシャブが来て、最後まで残ったのが煙草だ、と評価されるような歴史的ビョーニンの一端にいるのがワシら喫煙者です。

つまりワタクシは、喫煙習慣が、人類から先々無くなっていくべき悪習だと思っているのです。さればこそ、煙草という植物を管理栽培し、ご丁寧にも乾燥してから細かく刻み、燃焼時間が葉っぱと同じ時間になるように研究された紙に巻かれてパッケージにまでなって「ほれ、吸え」と売られている事態にいまさらながら驚きと怒りを感じるし、それにはまった自分の馬鹿さ加減にトホホな気持ちなのです。だいたいなんだ、フィルターって。それ自身の性能を抑制する装置込みで売られる嗜好品って矛盾してるぞ。

それではワシはこれからどうするのかという問題が残るわけです。あー。あー。う、う、う、うおーたー!サリバン先生!
な気分です。何かしら自分の内部でシフトをしなければならない事は明らかであります。うーーーーーー
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ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!

うーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
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!うーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
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ーーーー!うーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!
うーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
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ーーーー!


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