理想化をめぐる山口百恵としての栗原小巻


1999/3/14 18:13


Chomskian idealizationについての典型的な誤解と何故それらが誤解なのかについて書こうと思うのである。いろいろChomsky本人の書いたものから引っ張ってこれると良いのだが、筆者の怠慢からそれはしないのである。それは嘘で、直接引用しないのは怠慢ばかりではなく、ひとつには言語学慣れしていない人が彼の書くものを日常的解釈で読んでもまたまた誤解が増えていくばかりであると思われるから、である。少し慣れていてもちょっと油断するとえらいことになる書き方なのだ。


どんな学問分野でもその分野独特の言いまわしや術語があるが、それらにいちいち日常言語での解釈を加えていったら凄まじい事になるのは言うまでもなかろう。筆者がすぐに思い出すのは筒井康隆翁における「言語」という術語の用法である。筒井翁は「語彙」と言うべきところを「言語」と申され、また、「言語」にもやはり「言語」という言及の仕方をなさるので読んでいて頭がくらくらするのである。


筒井翁におかれては、『文学部唯野教授』中で「言語は記号です」という名言を主人公に吐かせたり、有名な「猫騒動」、「猫と言う言葉がシニフィアンで、実際の猫がシニフィエです」という脳髄瞬間沸騰発言をさせたり、そりゃもう大騒ぎなのである。(2015/03/08追記)筒井翁はこの直後で「記号のシステムです」とちゃんと書かれていることを発見。ただし、『短編小説講義』の中で、パロールを話し言葉、ラングを書き言葉として誤解されている。また、漢字の方がほかの表記より「記号性が高い」と書いておられるが、大間違い。漢字は象形文字であって、よって記号性は低いのだ。記号性じゃなくて高いのはアイコニシティだ。記号性が高い表記なら、たとえば「1」を「私」、「2」を「歩く」などとした場合だ。12345.こんな列が文になっていたら大変に記号性が高い言語だ。


言語は記号の体系という部分を持っていて、ソシュール翁が捉えられた言語観とはまさにそう言うものであろう。雑多な記号が一見乱雑に散らばっているようで、実はそれぞれの差異を頼りに支え合って存在していて、それらがlangueという体系を成している、というやつである。しかししかし、言語は記号そのものではないから、「言語は記号です」と言う宣言文の、筒井翁に良かれと指向する善意から発する解釈はもう「春はあけぼの」しか思いつかぬ。しかしまさか言語学を講義中の唯野教授がそのようなことを言うわけがない。それではおふざけが過ぎるというものだ。やはり筒井翁はここでは「言語」と「語彙」を混同して使っておられるとしか考えられぬのだ。


「猫発言」に至ってはもう申し訳ないが恥ずかしい。何で筆者が申し訳なかったり恥ずかしかったりするかと言うと、長年来の筒井ファンであるからである。少年期に出会い、以後ずっと良き読者たらんと努めてきたファンであるのだ。なにも努めることはあるまいが。 何がまずいと言って、この一言で筒井翁は「記号」という術語をまるっきり誤解していることが明らかになってしまった点がまずい。とほほほほ。大作家なんだからこんなことで隙を作ることもあるまいに。これまたしょーもないひょーろんかがここぞとばかりに突っ込んでいたのは悲しかった。文学に理論的一貫性を求めたり学問の教科書代わりに読もうなどとは、読者の首を絞める行いではあるまいか。


記号を構成するのがシニフィエとシニフィアンとすると、シニフィエはちまたの誤解に見られるように、「指されるもの」ではなくて、平たく言えば「意味内容」である。猫なら猫と言う語彙について我ら日本語話者が与える意味解釈である。それだけのことだ。シニフィアンは「指すもの」ではなく、猫という語彙のもつ音韻である。音声ではなく音韻だから、実際の音ではなく、言語機能における抽象的な言語音の表示だ。発声機能を不幸にして欠く障害をお持ちの方も、やはりこの音韻は持っているのだ。それ以上のいかなるユウゲニズムに基づく存在ではない。だから、猫と言う語彙がシニフィアンで実際の猫がシニフィエだ、と言うような解釈はもう言語を「人の外にあるもの」として捉える日常的子供解釈以外の何物でもないのだ。人の外にあるものがシニフィエならば、ユニコーンなどと言う語彙はシニフィエを持たないことになってしまうのである。そんな馬鹿なことは誰も言わないのである。
2017/06/01追記
言語は人間の心的表示であって、人の外にあるものでは無い、ということが分かっていれば、筒井翁が引っかかった罠にはまることは無い。音韻も意味も言語機能における表示に過ぎない。サインは心的実在なのだ。当然シニフィエもシニフィアンも心的表示だ。ソシュールはimageと言っているが。追記終わり。

筒井翁の誤解について書いたが、悪意はござらぬ。作品としては「文学部唯野教授」は間違いなく面白いし、筒井翁にしか書けぬたぐいの傑作であると信じているのだ。かの作品が有名であり、典型的な術語の引き寄せ解釈による誤解を提示してくれているので便利だから引っ張ったわけである。


さて、Chomskian idealizationである。 いろいろ誤解を招く理想化があるのだが、特に何じゃそりゃ解釈を産みつづけていると思われる二つに限って語りたいのである。


一つ目は、理想的言語使用者、である。ideal speaker-hearer、場所によってはideal speaker-listenerのことである。生成文法が解明を目指す第一が、個人の言語能力である。個人の言語能力はどこにあるか、と言えば、それは個々人の中にある、と考えたいのだが、この時点で「それは違う」と言う人もいるから世間は恐ろしい。否定仮面である。そういう方には「それなら個人を探求しないやり方で言語能力を説明してくだされ」とお願いしてお引取り願うしかないのだ。
いくらなんでもそのようなクレームはなかったと仮定して先へ進む。


個人の中にある言語能力を研究したいのだが、おお、何たる事だ、当該の個人の発話を観察すると破綻だらけだ。みんな長島茂雄だ。滅茶苦茶なことを言っておるではないか。すると発話は必ずしもデータにならんのか?何を頼りに調べていけばいいのだ。こっちのオヤジさんの知ってる単語をあっちの兄ちゃんは知らんと言うし、それならオヤジさんのほうが正しくて兄ちゃんは日本語話者として欠格か?そんなことはあるまい。


あっちの姉ちゃんは酔っ払ってるし、そういう俺は健忘症だ。言語活動の根底にあると我々が仮定する能力は直接には現れないし、個々人の語彙的知識には当然多寡がある。どうしたらいいのだ。


仕方がない。実行の問題としては、経験的な理論であるがゆえ、誰か特定の人間の判断に頼らざるを得ない。それを止めてしまってはその時点で形而上学になってしまう。日常良く聞かれる「何々と言う言い方は論理的におかしい」などと言うデータに文句をつける知ったか親父と同じになってしまう。何が論理的にじゃ。おまえの論理が浅いんじゃい!データを根拠のない論理とやらで判断する愚はオヤジ週刊誌に任せておけばいいのだ。


データは尊重しなければならない。ただし、理論が対象とするのは本人すらも後で聞けば笑い出すような不注意な発話などではなく、意識しない言語活動では否応なく現れてしまう言いよどみや言い間違え、途中での言いたいことの変更、短期記憶の制約からくると思われる繰り返しなどを取っ払ったものにしようではないか。もちろん誰に対してもそのような言語活動のみを期待するのは間違っている。そんなことは出てくるデータを片っ端から対象にしてにっちもさっちもいかなくなったアメリカ構造主義を知る我々が一番よく知っている。


そうだ!理想化というやつを行うのだ。そしてその ような理想化に基づく仮想的研究対象を理想的言語使用者と呼ぼう。 もちろん、この理想的言語使用者は特定の誰かのことではないし、 そのようなあり方を現実の話者に求めては理論と現象の逆転現象。 絶対にやってはいけないことであり、そんなことを考えるやつはファシストだ。そんなのはいやだ!言語学者は学問の性質上アカだらけだ。明らかなファシストが言語学者を名乗っていたりするが、あれは学問的 には相手にされておらぬ。あのファシストは言語学科の講義すら持たせてもらえぬのだ。誰もとりゃあせんのである。とにかく、理想的言語使用者とは純粋な言語能力の謂いであり、「使用者」という部分を日常解釈してはいけないのである。例えば視覚能力の研究において、入力となる光刺激が次々に処理/表示されていくモデルを考えたとしよう。当然このモデルには近視や眼精疲労、長時間の酷使による見誤り、個々人によって大いに差がある映像の再生能力などは含まれない。しかし、一般的に見られる錯視や距離感覚の物理的客観からの乖離は理論的に有意であるとして取り入れられるだろう。仮に万人が同じ錯覚を経験しないとしても、である。そして、このモデルを「理想的視覚能力使用者」と呼んだとしよう。これに問題がないなら、ideal speaker-hearerにも問題はないはずである。


さて、均一的言語共同体、である。homogeneous speech communityとかいう呪文の訳語である。これまた引き付け解釈の格好のターゲットになる呪文ではないか。


研究対象のひとつは、理想的言語使用者ということにした。では、そのような状態、言語能力はいかにして獲得されるのか、を次の課題にしようではないか。もしこのプログラムが成功して、理想的言語使用者の状態が記述できても、それがいかにして獲得されるかを記述できなくては、真に説明を成し遂げたとは言えないのではないか。


それでは獲得について考えよう。我々はいかなる状況で言語を獲得するのか。ちょっと見渡してみると、角の煙草屋のオヤジの語法と筋向いのスナックのマスターの語法は互いに矛盾するなあ。お隣りのこないだ生まれたばっかりのトモミちゃんのママは外国の人で、日本語がまだかなり怪しいし、時々ありえない使い方をしているなあ。代表的言語獲得者である、この世に生まれてくる子供に与えられた言語データと言うものは実に矛盾だらけで乱雑極まりないのだなあ。それにもかかわらず、どの子供も間違いなく母語を獲得していくし、入力の矛盾に獲得を邪魔された様子もない。


それでは、我々の研究対象である言語能力を作り出す仮想的装置への入力も、現実の発話を集めたものにして考えてみようか。とんでもない。ありとあらゆる獲得環境に現れる破綻や矛盾をすべて取り込んだ理論など立つわけがないではないか。そういうものを書いても、それは記述ではない。単なる記録だ


それではどうしたらいいのだ。またもや理想化である。獲得装置に与えられるデータに矛盾はないと仮定しよう。ずるい?とんでもない。矛盾したデータからすら一貫したシステムを作り上げるのだから、矛盾しないデータのみから作れると仮定するのは唯の単純化である。反対するなら、「獲得には矛盾したデータが必要である」事を示す必要があろう。


ここで仮定する「相互に矛盾することのないデータの集合」を与えてくれる空間として、均一的言語共同体を考えよう。ただしこの共同体にあるのは言語データだけであり、みんなが同じ言語生活を行いながら日々暮らしている不気味な社会を想像してはならない。そんなことを言うやつはファシストだ。筆者もせめて夜のファシストになりたいものであるが、ここでは触れない。結局均一的言語共同体とは、仮想的言語獲得装置への入力として矛盾がないような質の揃ったデータの集合と言うことに他ならない。社会という語彙で日常的想像をするのは明らかな短絡的誤りである。


ううむ。大体このようなことを昨夜夢に出てきたチョムスキーがいっておったんだが、これで問題はないかな。


総じて、かような理想化に対する誤解は、独自の用語習慣を持った分野への日常感覚および日常語彙による侵犯から生じているものであると思われる。それは、してはならんよ。少なくともそう言う考え方が数十年にわたって検討されている場合には、クレームをつける際に、自分が少なくとも数十年の「思い込み」を打破できる知見(ここは修正前才能と書いていたのだが、才能は小さなファクターに過ぎないなあと思ったので知見に修正)の持ち主であると確信していて、なおかつ、それが「思い込み」であることを綺麗に論証できるだけのデータと理論を持っていなくてはやってはなるまい。そのような道具なしに議論が出来ると言うのならまあ勝手にやればいいのである。怖いから遠巻きにして見守らせていただきたい。

言語学を講義中の唯野教授 厳密に言うと、「文芸評論の講義の中で言語学に触れている唯野教授」
大作家いろんな作家・評論家が言語学っぽい発言をするのだが、まともなのは唯一井上ひさし氏だけである。あのひともこの人も滅茶苦茶。だからと言って特に作家を非難すべきかはまた別の問題であってほしい。ただ、妙な評論家の入れ知恵でかかなくてもいい恥をかくのは衷心からやめてほしいものである。
意味解釈猫と言う語彙があのにゃんにゃ以外の意味を持つことがあることを捕まえて、差異ではなくて差延などという体系を成さない術語を作っている人たちがいるが、ふつーそれはメタファーと言うんじゃないんでしょうか。これまた文芸評論を何とかして理論にしたい人たちが飛びついていますが、文学は言語や文化や何でもかんでもの相互作用から来る派生物中の派生物でしょう。それゆえ何でも扱えるんじゃないの?それが文学の強みでしょう。直接「文学とは何ぞや」、そんなもん学問になりはせんでしょう。いったい何を研究しているのか、それを明示的にしてくれないと、遊びですぜ。
そんな馬鹿なこと例えば、「セーラームーンと言う言葉がシニフィアンで、実際のセーラームーンがシニフィエです。」など。実際のセーラームーンってなんだよ。ここで、「アニメのセーラームーンが『実際のセーラームーン』だ」という議論は成立しないぞ。それなら脚本段階ではどれがセーラームーンなのか、と、議論が一歩下がるだけである。それとも「セーラームーン」は「特殊な語彙」か?
明らかなファシスト さて、誰のことでしょう。去年だかに書いた英文法がどうしたと言う馬鹿みたいなひどい本で、「ピンカーは学校文法を批判している」、とか、「黒人の英語にも文法があるそうだ」という驚異的発言をしたあの人ですよ。
説明 記述がたまたま見た目の説明に成功してしまって、実装レベルの実態を記述したものではない場合などを排除するきつい条件である。
記録 記録は無論重要である。ここで目指すものではない、と言うことである。
ファシスト 前述したファシストはこういう理想がエリート階層の英語使用者の中で成立しうると考えているフシがある。アホは怖い。
ここでは触れられない 某馬鹿中の馬鹿(ほら、あのひとですよ)は、知りもしない言語理論にちょっと言及しては何にも具体的なことが言えないものだから「ここでは触れない」を繰り返していたものであった。専門書を斜め読みしてかっこいいと思ったんだろうなあ。とほほほほ。
















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