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で主語を落とせる、っていうかむしろ落として当然で、仏語で落とせないのは音価がきちっと
あるか否かでは無かろうかと思います。仏語はロマンス語としてはそうとう遠くまで
行っちゃった言語ではないでしょうか。これを「崩れた」という人もいるのだろうけど。
で、ですね、一見主語との一致がないように見える日本語でも、
?太郎が/先生が いらっしゃいました。
のように、主語との一致現象は実はあるので、
「来られたよ」
「やっとみえた」
「そうおっしゃってたよ」
などなど、これら述語が修飾している対象を心的表示として立てるのはふつーのことです。
それを統語表示にするか意味表示にするかは理論家の信ずるところによるでしょうが。
なんにせよ、
「そうおっしゃってたよ」 → [X そう おっしゃる]
という論理関係を想定しない理論は巨大な穴を抱えてることになる。
この辺を理解しないまま「主語無し」説を唱えられてもまいったな、です。
あそうだ、真に主語無しを主張するなら、よしこさんご紹介の本の著者は主語無し文だけで
完結するストーリーが書けるかやってごらんになるといいのだ。もっともそれでも論理的には
反例にならないのよな。反証する側は、「主語を落としてはいけない例」を一例出せば
いいのだから。
スペイン語はもうしょっちゅう主語はなくなります。
会話の中だと、よっぽど強調したいときとかしか3人称の固有名詞のときとかしか使いません。
人称によって動詞の活用が変わるのだから当たり前だと思ってました。
たとえば、グロリア・エステファンの 'Ayer' っていう歌なんか1番の始まりと2番の始まりを比べると
主語はメロディに合わすため語調を整えるだけの役目(にしか見えない)。
フランス語とかそのほかのロマンス語って主語はなくならないんですか?
形式的には人称活用のしっかりしたイタリア語などのほうが、と思いますが。日本語での「主語抜き」は談話レベルの話ではないかと。
粗っぽい言い方ですが、談話中で特に「誰について」が設定されていない場面で「主語抜き」があった場合、平叙文の主語は一人称、疑問文の主語は二人称とか。
「誰について」の会話の場合、例えば
1 「お父さんどこ?」
2 「庭にいるよ」
3 「何してる?」
4 「草取りでしょ。私は買い物に行くけど、あんたは何してるの?」
5 「宿題やるとこだよ」
について言えば、談話を開始する1では必ず主語を確定、2以降については、主語は1と同一。会話の途中でトピックとなる人物を変える場合は4のように主語を入れる。5ではトピックとなる人物が話者なので(一人称の)主語抜き。
↑は規則として記述できると思いますが、これはsyntaxではなく談話規則でしょう。「○○言語」という形容にはあてはまらない。
>政府系シンクタンク
同業者として「何でこんないいかげんなことが」と信じられない気持ちです。官僚がクライアントだと「ウラ取り地獄」に落とされるのが常なのだけど。本職でないからいいかげんなことをやってるのか、通産省が甘いのか(とは考えにくいんですけどねえ)。
「日本語主語無し説」
実に簡単にこの手の論旨を退けるロジックを見つけました。
「選択的に主語が落ちる。述語でも目的語でもなく主語が落ちる。これは『主語』概念が
有意であるシステムでしか起きえない」
久々に自分が書いた懸案の文書を読み返しましたが、なんか表現が稚拙なところがあるので
(誤入力も)ちょっと編集日時を付け加えて書き足した方がいいようですね。
それからファイルの構成自体が大変読みにくくなってしまっているので、参照ファイルに
分けるべきところを切り出そうと思います(もちろんちゃんとリンクして原型を保ったまま)。
>ひとのことを「粘着」だなんていいつつ、ご本人のこだわりぶりは上手を行っているようで。
脅迫大先生もこの言葉が好きみたいですよ。「追求されると困る」立場にある人はなぜか
ここに着地するようです。どうしてかなあ。不思議だなあ。自分から言い始めたのになあ。
カツ丼でもとってあげようかなあ。クニのお袋さんの話でもしようかなあ。
この手の飛びっぷりでは脅迫君がダントツの一位だと思ったのでファイル別にしたんですが、
並べようかな、いやもちろん池田さんを脅迫先生の方へ移行するんですが。あ、それは
やっぱり誰に対しても失礼だから脅迫先生はまた別リンクへ移動ってことで。名誉一位。
改竄記録としてファイルに保存しておきました。
暇なとき例のファイルにくっつけて乗っけます。夏休みのかんさつにっきとして。
もうまともな読解力のある人間に対する影響は皆無であると悟って気にもしていませんでしたが、
こうしてお二方に並べていただくとこれはこれで本筋の議論云々ではないところで鑑賞に
値するお方であるようですね、池田さん。
こんな人いるんだ!こんな人いるんだ!こんな人いるんだ!あははははははは。
記録する価値がありますね。いやぁ、おもしろい存在だなあ。
以後、そういう方、として鑑賞しましょう。いけいけどこまでも!
(続き)
(6月19日(木))
後記:この反書評は、日本のチョムスキー信者を激怒させたようだが、アマゾンの書評にも書かれているように、チョムスキーがポルポト派を擁護したことは歴史的な事実である。おまけに、彼がイラクに対する経済制裁に反対して書いた"Iraq under Siege"という本の共著者は、イラク戦争のあと逮捕された「ミセス炭疽菌」と呼ばれるバース党の女性幹部だ。チョムスキーの反米キャンペーンは、フセインによって独裁政権の正当化に悪用されたのである。
後記2:ごていねいに、このファイルに逐語的な注釈までつけてくれた半可通(格文法が「生成文法の一種」だって?笑わせるなよ)までいるが、他の言語理論(たとえばLakoffの"Philosophy in the Flesh")を読めば、チョムスキーが米国ローカルの「自民族中心主義」であることがわかるだろう。今時こんな認識論的に幼稚な言語理論が生き残っている米国の文化的後進性も困ったものだが、それが今ごろ輸入されて流行する日本の現状は、なんと評したらよいのだろうか。
(8月04日(木))
後記:この反書評は、日本のチョムスキー信者を激怒させたようだが、アマゾンの書評にも書かれているように、チョムスキーがポルポト派を擁護したことは歴史的な事実である。おまけに、彼がイラクに対する経済制裁に反対して書いた"Iraq under Siege"という本の共同執筆者は、イラク戦争のあと逮捕された「ミセス炭疽菌」と呼ばれるバース党の女性幹部だ。チョムスキーの反米キャンペーンがフセイン政権の正当化に悪用された罪は大きい。
後記2:ごていねいに、このページに逐語的な注釈までつけてくれた半可通(格文法が「生成文法の一種」だって?笑わせるなよ)までいるが、他の言語理論(たとえばLakoffの"Philosophy in the Flesh")を読めば、チョムスキーが米国ローカルの「自民族中心主義」であることがわかるだろう。今時こんな認識論的に幼稚な言語理論が生き残っている米国の文化的後進性も困ったものだが、それが今ごろ輸入されて流行する日本の現状は、なんと評したらよいのだろうか。
(8月19日(木))
後記:この反書評は、日本のチョムスキー信者を激怒させたようだが、アマゾンの書評にも書かれているように、チョムスキーがポルポト派を擁護したことは歴史的な事実である。おまけに、彼がイラクに対する経済制裁に反対して書いた"Iraq under Siege"という本の共同執筆者は、イラク戦争のあと逮捕された「ミセス炭疽菌」と呼ばれるバース党の女性幹部だ。チョムスキーの反米キャンペーンがフセイン政権の正当化に悪用された罪は大きい。
後記2:言語学の理論としても、チョムスキーはもはや主流ではない。たとえばLakoffの"Philosophy in the Flesh"を読めば、チョムスキーが米国ローカルの「自民族中心主義」であることがわかるだろう。今時こんな認識論的に幼稚な言語理論が生き残っている米国の文化的後進性も困ったものだが、それがチョムスキー学派の解体した今ごろ輸入されて流行する日本の現状は、なんと評したらよいのだろうか。
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ひとのことを「粘着」だなんていいつつ、ご本人のこだわりぶりは上手を行っているようで。
>姑息に書き直して、リンクだけは外して知らんぷりとは呆れました。
このリンクはもともと、山形浩生という人のサイトに向けて貼られていました。
それをなぜかこちらのサイト向けに直し、さらに現在ははずしたもの。
池田氏が「後記」を何回改変したか厳密にはわかりませんが、確認できる限りの履歴を
提供しときます(カッコ内は確認できた日時):
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(3月30日)
後記2:この反書評は、日本のチョムスキー・フリークを激怒させたようだが、私を批判するなら、ここ半世紀の言語学の論争を踏まえてほしいものである。チョムスキーが主流に見えるのは、実際には米国ローカルの現象で、たとえばレイコフのチョムスキー批判は欧州では主流に近い。チョムスキーのような(ソシュールやバンヴェニストによって否定された)西欧中心主義がいまだに主流である米国の言語学界の後進性も問題だが、それが今ごろ輸入されて流行する日本の現状は、何と形容したらよいのだろうか。
(5月28日(水))
後記2:日本では、チョムスキー学派が解体した今ごろになって、その言語理論を賞賛する半可通もいるようだ。コメントする価値もないが、ひとことだけ:Lakoffの本(どれでもよい)を読め。私は、彼の「メタファー理論」を支持しないが、彼のチョムスキー批判はきわめて本質的で、正確である。彼が主流であるように見えたのも、実は米国ローカルの現象にすぎない。ソシュールやフッサールから100年近くたって、こんな認識論的に幼稚な言語理論が生き残っているのも問題だが、それが今ごろ(政治評論と一緒に)輸入されて流行する日本の現状は、なんと評したらよいのだろうか。
(5月29日(木))
後記2:日本では、チョムスキー学派が解体した今ごろになって、その言語理論を賞賛する半可通もいるようだ。コメントする価値もないが、Lakoffの本(たとえば"Philosophy in the Flesh")を読めば、チョムスキーが西欧の「自民族中心主義」の典型であることがわかるだろう。彼が主流であるように見えたのも、実は米国ローカルの現象にすぎない。ソシュールやフッサールから100年近くたって、こんな認識論的に幼稚な言語理論が生き残っているのも問題だが、それが今ごろ(政治評論と一緒に)輸入されて流行する日本の現状は、なんと評したらよいのだろうか。
(6月14日(土))
後記:この反書評は、日本のチョムスキー信者を激怒させたようだが、アマゾンの書評にも具体的に書かれているように、チョムスキーが大虐殺についての西側の報道が「誇張されている」として、ポルポト派を擁護したことは歴史的な事実である。おまけに、彼がイラクに対する経済制裁に反対して書いた"Iraq under Siege"という本の共著者は、イラク戦争のあと逮捕された「ミセス炭疽菌」と呼ばれるバース党の女性幹部だ。チョムスキーの言論がフセイン政権に悪用された影響は、ほとんど犯罪的である。
後記2:ごていねいに、このファイルに逐語的な注釈までつけてくれた半可通(格文法が「生成文法の一種」だって?笑わせるなよ)もいるようだ。日本のチョムスキー信者の「粘着性」は病的だが、普通の言語哲学の本(たとえばLakoffの"Philosophy in the Flesh")を読めば、チョムスキーが西欧の「自民族中心主義」の典型であることがわかるだろう。彼が主流であるように見えたのも、実は米国ローカルの現象にすぎない。ソシュールやフッサールから100年近くたって、こんな認識論的に幼稚な言語理論が生き残っているのも問題だが、それが今ごろ(政治評論と一緒に)輸入されて流行する日本の現状は、なんと評したらよいのだろうか。
(続く)
彼のことはもう触れないほうがいいとのことでしたが、これでは触れざるを得ません。
http://www003.upp.so-net.ne.jp/ikeda/Chomsky.html
こちらのページを「半可通」呼ばわりして、わざわざリンクまでしたくせに、
批判によって自分のデタラメを指摘されると、
姑息に書き直して、リンクだけは外して知らんぷりとは呆れました。
「格文法が「生成文法の一種」だって?笑わせるなよ」の迷セリフも削除。
「チョムスキーの共著者はミセス炭疽菌」と書いていたのも、
オムニバスの論文集だと指摘されたからなのか、なんの説明もなく
「共同執筆者」と書き直している。
これが政府系シンクタンクの研究員のやることかと呆れています。
さらに池田が、チョムスキーがポルポトを擁護したのは「歴史的な事実」である
証拠だとしてリンクしているamazon.comの"After the Cataclysm"の書評は
原文を曲解した酷いものです。
この書評では、チョムスキーとエドワード・ハーマンがあたかも
「虐殺の死者の数は、100分の1の2.5000人だ」と主張しているかのように
書いていますが、
実は原文では「もし虐殺の被害者が100分の1の2.5000人だったなら、
(アメリカの議員は)カンボジアへの軍事介入を提案などしなかったろう」
ということを書いているだけで、」チョムスキーが
「虐殺の死者は100分の1の2.5000人だけだ」と主張してるわけではないのです。
ところが池田はこの書評を根拠に、
自分が務める経済産業研究所(RIETI)のメーリングリストで、
チョムスキーは「実際の犠牲者を「25000人ぐらい」と見積もって批判を浴び」た
と書き、さらには
「イラクへの経済制裁に反対して出版した本の共著者には、今度の戦争のあと逮
捕された「ミセス炭疽菌」と呼ばれるバース党の女性幹部が含まれています」
とも書いているのです。(下記リンク参照)
これらは完全に嘘です。彼は政府系シンクタンクである経済産業研究所の
メーリングリストで読者をミスリードしたわけです。
自分に都合の悪いことは削除するけど、
他人を攻撃するためならデタラメでも気にしないようです。やれやれ。
これ誰やー!
これはやくざな扱いができなかったようです。
メリケンのアニメ絵がひでーとは思ってたがこれがトトロでサツキでメイだ。
色がきしょい。巨大なだけのハンバーガーをコーラ一リットルで飲まされそうだ。
お仕事もどきをしてますが、リンゴが歌ってるとなんか腹が立つ私はビートルズファンとして
心が狭いのでしょうか。なんでこいつだけ声がつまんないんだ?必死か!
次にジョンが
"it's only love and that is all..."
なんぞとあの声で歌うからますますリンゴがつまらなく思える。
ピート・ベストがかわいそうだと思うからなおさら腹が立つのか。
まだステレオ録音にならない頃のビートルズ初期アルバムってPCのせこいスピーカで聴くと
感じがでていいです。
ちゃちいプラスチックのスピーカが自分の振動に弾けそうなおもちゃ音で歌うジョンの
声は来るねえ。
例によって五感ものの一つとしてPCサウンドの追求もとめどなくきりがないであろうことを
サイト巡りで見越したわたくしは、今の資産を生かす方法を模索するのであった。
今のステレオセットにつないでるスピーカは高い物ではないがスタジオモニターに使われる種類のやつで、中高音の再現性はよろしい。問題はノートから接続する点なので、
ミュージックサーバーに今よりちょっといい目の音源ボードを入れてそこからアンプに
回したらどうだろう。
すると音源ボードがやっている仕事はいったい何なのかが気になるのだが、単にデジタル信号を
アンプに渡すというだけなら違いはないはずで、ボードの段階で何らかの処理をしているので
無ければあれほど世にボードの違いをうったえる評価が出回っているとも思えず。
補正のたぐいだろうか。別にボードを介して録音なんかしないのだから、ほかの回路が
仕込んであってもわたくしには関係ないはずなんだが。
つーことは、「音楽ファイルの再生処理に関わる回路に何を使っているか・させているか」
だけが問題で、これを考えないと無駄なアップグレード衝動にやられる。
そもそもいまの構成だと、信号ー再生直結に一番近いはずで、途中のDA-AD変換は目をつぶる
として、いや、出口のDAがあるだけで後はずっとDDDで行けてるはずだから、劣化はない。
ちゅうことは「今の音に何かを加える」処理しか見込めない、つまりやっぱり補正だ。
途中がデジタル回路である限り出口しか考えなくていいのか。おお偉大なりデジタル。
まてまて無線のマイクロ波はどうなんだ?DA-ADが一カ所入るのか?これはもうどうしようも
ないよな。符号が落ちるとも思えん。などと言いつつ変換するためにトレイに突っ込もうとした
ドヴォルザークのスラブ舞曲集のケースが開かない。なんだこれは。接着してる。ニテか。
なんにせよ途中の劣化はゼロとして考えられそうだし、ファイル形式は言ってみれば定数。
すると音源、この場合はCDのサンプリングレートと出口の回路だけが問題で。
CD→PC内の変換処理→WMA/MP3→PC内の転送ルート→ルータ→アクセスポイント→LANカード→ノートの一時ファイル→ノートの音源ボード→アンプ→スピーカ
が一挙に
CD→音楽ファイル→ノートの音源ボード→アンプ→スピーカ
になって、定数を無視してパラミターだけだと
{CD, ノートの音源ボード, アンプ, スピーカ}
で、更に状況的変数を除くと(CDの録音形式を変えてくれと言ってもまあむだだ)、
{音源ボード, アンプ, スピーカ}
全部経済的な変数です。スピーカとアンプを換える気はないし、こいつらは経済的定数
みたいなもんだ。結局ボードかよ。ぐるぐる回ってるな、わし。
ノートのスピーカで聴いてるぶんにはいいんだが、アンプにつなぐとやはりすかすかだ。
音、薄ー!うっすー!
まともなステレオセットではなく、クリエイティブやソニーが出してるPC用のアンプ・スピーカ
セットの方がそれなりに聞こえるのだろうか。
しかしそれらに手を出すのもまた化学調味料な世界だと思える。いやもうCD聴いてる段階で
十分化学調味料な訳ではあるんですが。
ミュージックサーバ、音楽を聴くおもちゃとしては最強ですわ。
LANハードディスクのたぐいを調べたらまだおかしなぐらい高いので、昨夜cerelon466で
一台復旧させましたよ。win98を入れたらこれで速い速い。XPって重いんだな、いまさら。
さてこいつにsambaサーバとして動いてもらいたいのだが、この世にはFD-sambaという
えらいツールを作った方々がおられるのだなあ。あっけなくつながったのでいっそ驚いた。
サーバ立てるよりNetDiskという便利なものがこの世にはあるんですなあ。
こっちのほうが電気を食わないし、単なるストーレッジとしては効率的だ。
音楽ファイル10ギガじゃ無理だった。
いつもいつもメインの電力を食うマシンを立ち上げるのもなんだから、
ジャンクパーツから音楽ファイル専用サーバを作ったほうがオリコウかも知れない。
このあいだ秋葉で買ってきたcerelon466があるのだ。なんと500円で買ったのだ。
これを古いメインボードに入れてHDDだけ40ギガで、無線接続。おー。すばらしい。
そのうちHDDを入れ替えてビデオもいれちゃれ。おー。
嫌いじゃないですが、この気温と雨。散歩すると妙に木々がきれいだったりする。
ワタクシは一人の英国紳士として傘をささない主義であるのですが、そのデモンストレー
ションのためにも適した雨です。
しかしトマトが実らないのは一人の農民として悲しい。
キリクと魔女、多分劇場では見られないな。代わりに見てきてね。よもせこ。
無線LAN開通記念にうち中のCDを音楽ファイル(WMA-192)に変換しております。
せいぜい10ギガ程度で済みそうです。
メインマシンのHDDに入ったやつを片っ端からノートで再生して遊んでいます。
ノートをステレオアンプにつないで聴いてみましたが、MP3の高圧縮ファイルはやっぱり
音がスカスカだ。128以上だととりあえず聞きものになります。
まだ、「キリクと魔女」見にいけてません。
木曜日以降、外出らしい外出していなくて、きょうあたり書店にだけでも行かないと、
完璧に煮詰まってしまう。
緋さん、魔力でこれから1時間以内にピーカンにしてくださいませんこと?
無線LANいいわあ。
うれしくて家中ノートマシン担いで回ってます。
サーバ作れるんだなあ。ひどいことしようかなあ。
ケーブルから開放されたのが何よりです。
などと言っておいて。
先ほど無線LANを開通させました。
これで今うちにある4台か5台のPCが一挙につながるなぁ。
いいんだろうか。
節約どころか。
数日前購入したメモリいきなり初期不良。
LANカード二日でクラッシュ。
LANカード突っ込んだマシンがいろいろダウンロードした後、いきなりウェブアクセスを嫌
がるのでこれはウィルスかい?といろいろやってみるがウェブが見えない。
今朝方三時間ほどかけて設定をいろいろ変え、PCIスロットの数を掛け合わせた回数
トライしまだだめ。
Ping打ってみるとモデムが見えてないですがな。あの店めあの店め。
というわけで今久々にノートでつないでます。
このノートも昨夜ブラスター食らって自動シャットダウンマシンになり狂いやがって
ちくしょうめ。
ウィルスやマシントラブルでこんなに後手に回ったのは初めてだ。悔しい。
は、自分の生活を快適にするための術、だと思うようになるました。
前のカキコしたときは、天然酵母パン種を起こしてやっていた最中。
パンなんてパン屋に行かずとも、コンビニで200円で売ってるのに、なんで、手間と時間をかけるのか?
といえば、1斤150円で売ってるパンは中身がわけわからん。食物アレルギー起こして命を落とさないとも限らない。手間と時間をかけて自分でつくれば、120円程度で(少なくともコンビニで売ってるパン
よりは、「中身がわかるパン」ができる。わたしにとっては、自分で焼いたパンの方がおいしい。
これって、ある意味では、自己満足なんだけど、この自己満足で自分にとってのおいしいものが食べれる快適さを得るからね。
さらに、ウチの近所には、しょっちゅうテレビや雑誌で取り上げられる天然酵母パン屋があるけど、そこのパン、1斤300円。おいしいけど、常食は不可。これは、わたしの年収が仮に1億あったとしても、変わらない。
生産者責任とともに使用者責任、または心構えが気になりつつあります。
清貧はどうやら流行言葉で終わったようですが、同じことを気取らずに、はっきり
「生活レベルを落とす」と言っておきたい。
ごく単純に節約を心がけるってことでもいいような気がします。
これをやっておけば生産者のストラテジーに巻き込まれることも減るのでは。
みんながやり始めたら景気は落ち込むのだろうか。経済って分からないなあ。知らねば
ならんのであろうが。
>思想
というよりpriorityですが。
>PC
たとえば、筐体だけでも、何割か生物分解性プラスティック(強度が弱いから100%生物分解性に
するのは、今のところは無理らしい)を使ったら、それだけで、価格がだいぶ上がりますね。
だけど、そのこと自体よりも、何割か生物分解性プラスティックを使ったという企業データそのものが
改竄されているのでは、と、まず、疑わなければならないこの国って厄介だし、鬱とまではいかなくても
充分嫌悪の対象にはなる。
誰かを出し抜いて金儲けしようっていう、浅ましい発想の源はどこから来ているんだろう。
