へらさけ雑記4

目次です


私は小松サキョニアンである
広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由
父とアルツハイマー
Sくんのこと
Ziggy Stardust
戦場のメリークリスマス
「男」の仕事
本多さんも宮崎さんも
いい加減副島隆彦を訴えようと思う
性欲がない
小松サキョニアン

また子供が欲しい

一人の小松サキョニアンとして

巨星落ちる

青い鳥再考
段あいかさんを応援しよう





ワタクシは小松サキョニアンである

2009年5月3日(日)





ワタクシは小松サキョニアンである。小松左京の子供であるといってもいい。「空中都市008」を始めとして小松作品にはずいぶんとお世話になってきているのである。「虚無回廊」の二巻に、インタープリターというものが出てくるという話を堀晃さんとの対談で語っておられたので、大変に楽しみにしているのである。
『虚無回廊』ではUUG(Universal Universal Grammar)の存在抜きには考えられないコミニュケーションが行われていたが、最終的にそれを可能にするのはインタープリターの存在であると思う。

この話を詰めていくと、最終的には、何ゆえ世界は数学で記述できるのかという難問に突き当たるのだが、言語についても同様、何ゆえ言語で世界を語ることが出来るのか、という問いが浮かび上がってくるのだ。数学も言語も、それぞれ記号の体系という面を持っていて、故に人間外の情報を記述することが出来るのだとこの半可通は考えるのだ。

スティーブン・ウェッブの「広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由」の中で、最終的に地球外知的生命体がいない理由の決定的要因として「言語の存在の奇跡的な発現」が挙げられているが、確かにそうだ、と思わざるを得ない。500億種の地球生命の中で言語を獲得した種はヒトだけだ。言語なしには何も出来ない。「2001年宇宙の旅」の中で、最初にヒトが行う知的行為として、武器つまり道具の使用が描かれているが、言語のほうが先ではなかろうか。「2001」の中でも、集団での戦闘が描かれているときに、単なる威嚇の吠え声だけでなく、言語の萌芽らしきものが出てきているように思えたのはひいき目というものだろうか。

ワタクシは言語の萌芽は実は手話ではないかとまで夢想しているのである。二足歩行でまず両手が自由になったことがその夢想の原因だ。 それに、またアレかと思われそうだが、ワタクシは一日で手話を獲得してしまったのである。こんなに正直な言語はないと思われる獲得過程であった。このことについてはまた、いつか別のときに書こう。

確か椎名誠さんがどこかで、「小松左京の作品がいま読めないのは不当だと思う」という趣旨の発言をなさっていたが、まったく同意するものである。その文章中で、「日本の江戸文化がそのまま残ったままで文明開化した現代」が舞台の作品を挙げておられて、作品名を失念しておられたが、これは確かな記憶で書くのだが、それは、「お糸」という短編です。江戸末期の文化がそのまま現代技術を取り入れて、独特のジャポニズムな世界が展開されている作品です。私が大金持ちだったら、小松左京全作品を全集にしたいぐらい私は小松左京にやられちまってます。今はハルキ文庫で少しずつ出版されていますが、まだまだあの方の短編はたくさんあるから、是非もっとたくさん文庫化してほしいものです。




広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由


これは面白い本です。これだけのさまざまな分野から、「地球外知的生命体はいない」というヒジョーに悲しいけど現実的な結論を導き出すとは、著者はただものではありません。「最終的に地球外生命体がいない理由」として、言語の奇跡的な発現が挙げられていますが、これは説得力があります。言語なしでは生命体はいかにほかの部分で発達していても、共同作業やコミニュケーションが取れず、電波天文台も作れない、テレビやラジオも作れない、よって言語なしの知的生命体はいないという結論が導き出されています。これはクリティカルかつクルーシャルな結論です。残念ながら、まことに残念ながら、この宇宙には我々しかいないのです。なんという壮大な無駄。どこかの惑星で原始的生命体が存在するのはほぼ間違いないとしても、知的生命体は我々しかいないのです。寂しいけど現実的な結論だと思います。



父とアルツハイマー

私と父の親子関係はひどいものだった。昔泣き言を書いているので、良かったら読んで下さい。
郷里に20年ぶりに帰ってきた私の目に映った父は、アルツハイマーで寝たきりの老人だった。父は戦災孤児で、残っている成績表を見ると、全科目優で、添え書きには、なんとしても進学させて下さい、と繰り返し書かれている。
両親の顔も知らない父は、親戚をたらい回しにされて暮らしていたため、15歳から働きづめであった。自分で働いた金で、発破の資格を取り、工事現場で働いたこともあるそうだ。しかしやはり優秀さというものは発揮する場所を見つければ芽が出るもので、ホテルに勤めた父は、わずかな期間で支配人にまでなった。殺したいほど憎んだこともある父であるが、大学院博士課程まで行かせてくれたことにはやはり感謝しなければなるまい。私が一時アル中になったのも、父の酒を飲んでの説教癖が根底にあると思うのだが、もういい。許す。 許して、俺は好きなように生きていく。失った時間も取り戻す。許すことで心にゆとりが生まれることも発見した。父さん、あんたの人生はいいものだったかい?俺はその何倍も幸せになるよ。前頭葉も海馬も扁桃核も失いつつあるあんたを誰も責めはしないよ。命があるだけでめっけもんだ。許してやるよ、死んだ兄さんたちも許していると思うよ。



Sくんのこと


わが親友Sくんが自ら命を絶ってもう十年にもなる。でも、まだ、僕は彼からの電話を待っている自分に気がつくことがある。Sくんは人見知りするくせに、一度親しくなったらどんな犠牲を払っても約束を果たす男だった。
僕がバイクが大好きだというので、彼も免許を取った。最初はバイク屋で女の子が乗るような250のバイクを選んで、僕の部屋に横付けした。僕は、それを一目見ると、「S,それは男のバイクじゃないぜ。もっとアウトなやつを選びなよ」とアドバイスした。つぎにSくんはSRXというまさに男のバイクに乗って現れた。「これだよ、これが男のバイクだぜ」というと、Sくんはもう契約を済ませてきたんだと得意げだった。
そんなSくんであったが、彼は日本英語検定協会にスカウト入社するぐらい優秀だった。貧乏な大学院生であった僕に、どれだけ飯を食わせてくれ、パソコンの部品を買うといっては金を借りたことか。
前述の通り、僕には彼が死んだという実感がないので、葬式にも行かなかった。死んで三年たって、僕宛の遺書を読んで、やっと涙が出た。 そのあとすぐに僕は山口県の彼の生家に出かけた。お参りがしたかったのだ。ご両親は刺身や酒を準備していて下さって、僕を泊めて下さるつもりのようだった。仏壇と墓を見て、ため息が出た。墓には彼の名前も戒名も記されておらず、それだけご両親の悲しみは深かったのだろうと、また泣いてしまった。
実はSくんが身を投げるその晩に私の電話に伝言が入っていたのだ。「なんだ、いないのか」
毎日一時間は話をする彼。遅く帰ってきて疲れていたとはいえ、なぜ返信しなかったんだろうという思いに胸を焼かれた。
もし俺が、あのときに。
バイクで来てくれれば良かったのに。
罪の意識に苛まれた。
10年以上たった今も彼の優しくて繊細な所を思い出す。
でも、今はもう泣かない。誰にも止められなかったんだと考えるようになった。
でもね、Sよ、おまえずるいよ。ずっと若いままでみっともなくなっていく俺を見てるのかい?
おまえの一部は俺の中で生きているからね。死なせたりしないよ。大丈夫。信じろよ。



Ziggy Stardust





もう何か所かで触れているが、デビッド・ボウイのファンである。
彼の孤独なナルシズムが好きだ。
七〇年代には先端を走りすぎていて、83年のLet's Danceで、やっと時代がボウイに追いついた感があった。
今ユーチューブで検索してみると、こんなのが出てきた。そりゃ先に行きすぎだよ、ボウイ。彼ほどの感覚と知性を持ったロッカーはしばらく出てこないだろうな。スティングをのぞいては。
ところで、ワタクシがしゃべる英語はデビッド・ボウイに似ているらしい。上のSくんを始め、複数の人間から言われたことだ。彼の英語を暗唱できるぐらいに聞いたせいか、アクセントやピッチが似てきているのだろう。ボウイ、日本にはこんなファンもいるんだよ。
ニナ・ハーゲンが歌ってるのまであった。 この項続く予定。


戦場のメリークリスマス


もう何回見返しているか分からない映画である。百回近く見ているかもしれない。デビッド・ボウイと北野武と坂本龍一だぜ、すげーメンバーだ。トレイラーは探したんだけど分かんなくなっちゃった。未見の方、是非見て下さい。デビッド・ボウイと坂本龍一のキスシーンや、ビートたけしの笑顔がすばらしい。女子高生と付き合っていた頃、この映画を見せたら、「あなたのことが分かった」って言われたんだよ。自慢自慢。いったい何が分かったのかなあ?
でも、学部時代に合宿へ行ったとき、この歌をデビッド・シルビアン風にアカペラで歌ったら浮いたねえ。今となっては懐かしい思い出ですが。



「男」の仕事



バーテンさんが好きである。
夜ごと夜ごとにいろんな客がやってくるのを上手にさばきながら飲み物を作る。
行くたびに違う女と現れても、そんなことは表情に出しもせずに「いらっしゃいませ、お久しぶりですね」なんて言ってくれる人までいる。 本当にバーテンダーは男の仕事だ。(この項続く)



本多さんも宮崎さん


本多勝一さん宮崎哲弥さんに公開質問状を出して一週間以上になる。
内容は、例の田中克彦氏の嘘についてどう思うのか、である。
お二人ともお答えになる気はないらしい。残念である。宮崎さんはエライヒョーロンカだから仕方がないとしても、本多さんの回答のなさにはがっかりしている。お二人とも、答えがない以上認めたと見なしていいんですね?
宮崎さんも本多さんも無責任な人として今後は距離を置いて付き合うしかないようですね。



副島隆彦をいい加減に訴えようと思う



もういい加減に副島隆彦を訴えようと思う。脅迫、名誉毀損、言い出したらきりがない。信者に守られて王様気取りの副島だが、
脅迫状を直接検察に持ち込もうと思う。こちらの名誉が毀損され続けている以上、時効は成立していないはずだ。また、脅迫状もその効果が続いているので、こちらも時効は成立していない。こんなゴキブリみたいな人間もいるんだなあ。あまりのばかばかしさに呆れるが、脅迫は脅迫である。賠償金400万を請求するつもりだ。今の副島なら払える金額だろうから。明日、月曜日になったら、検察へ連絡するつもりだ。副島君、待っていなさい。

2010年9月29日記す。
面倒くさいなあと思いながらもきのう警察へ行って事情を説明したら、サイバーポリスと生活安全課が調べてくれるとのこと。ありがたい限りである。刑事事件としては警察に任せよう。しかし、民事はまだ残っているので、これは自分の手で直接やってしまおうと思っている。とりあえず一千万要求して、半分の五百万でいいから判決が出るのを待ちたい。ほんの少しだが、法律の勉強をやっていて良かったと思うのだ。それと、私への謝罪文の表明をしていただきたいとも思っている。こっっちは容赦しないよ。


映画「ダカタ」について




筒井康隆に「上の世界」という短編がある。知的階層とそうでない階層が地上と地下に別れて暮らしている世界の話だ。
オースン・スコット・カードにも、「無伴奏ソナタ」という作品がある。これも、生まれ持った才能で職業が決まる世界の話だ。
こういう社会になってゆくんだろうなぁ。格差社会どころか「遺伝子格差社会」である。「ダカタ」の中では、主人公は寿命30才で、鬱の発生率90パーセントで生まれてくる。しかし、validの青年の血液や毛髪を認証に使って、宇宙探査会社「ダカタ」へ入社して、最終的にはロケットで宇宙へと飛んでいくのだ。



性欲がない



近頃とんと性欲がない。何を見てもぴくりともしないのだ。すっかり干上がってしまったのだろうか。この年ではまだ早すぎると思うのだが、チャンスが来ればちゃんと働いてくれるのか、俺の性欲よ。
先日田舎のクラス会があって、インポ状態について話したら、チャンスが来ればちゃんと働くよとのことであった.図書館で働いているエリカちゃんをものにすればちゃんと出来そうな気がする。その前にメルアドゲットしなければならない。恋愛なんて何年ぶりだろう。東京に住んでいる二人の息子、ニテとケテに少し申し訳ない気もする。でも、また子供がほしいな。最初から育てる楽しみといったらないからね。




小松サキョニアンとして



先に書いたようにワタクシは小松サキョニアンであるが、同時に梶田リアンでもある。上智大学名誉教授の梶田優先生の理論に多大な影響を受けている。梶田先生は意味論を軽く見ない。このあたりがチョムスキーと違うところだ。また、子供の発達についても同じである。どうやって子供が言語を習得していくのかを、外延的パラミターではなく、内包的パラミターで説明するのだ。言語器官にはこういうパラミターがあるとはじめから決めるのではなく、どういうパラミターがありうるかを発達途上の子供の認知能力から引き出すのだ。今日街へ出るので、ベイカーの「言語のレシピ」を買ってこようと思う。強烈なチョムスキアンであるベイカーが抱合語と解析語をどう説明しているかに興味があるのだ。それにつけても田舎の暮らしは退屈だ。ワタクシは15歳までこんな田舎にいたんだなあ。情報に飢え、毎日新しいことを求めていた。本しかなかった。逃避的読書だった。少年時代の読書については、ニテケテへの手紙に書いてあるとおりだ。
話変わって、再来年に三回目の結婚をしようと思う。ターゲットは捕捉中だ。どんどん攻めていってものにしてやるつもりだ。ニテ君、ケテ君、弟か妹が出来るかもしれないかわいがってね。

また子供がほしい


また子供がほしくなっている。東京にいる10歳と7歳の息子たちには悪いが、また子供がほしくなっているのだ。かわいいもんなあ、子供。ニテケテ、腹違いの弟か妹が出来ても、君たちへの気持ちは変わらないからね。




ワタクシが生まれる前に死んだ二人の兄の遺骨をついさっき見た。小さな指。小さな頭蓋骨。涙が出たよ。母に、この二人が死ななくても僕らは生まれたかな?とたずねると、やはり生んだでしょうとの答え。お兄ちゃんが欲しかったなあ。薫兄ちゃん、浩兄ちゃん、兄ちゃんたちは偉かったよ。薫兄ちゃんなんか2歳半でもう何でもしゃべれたそうじゃないか。死ぬ前に、「仏壇のところへいきたい」といって、場所を移されると「きれいだぁ、本当にきれいだぁ」と言いながら死んだそうじゃないか。俺が劇症肝炎で死にかけているときにも誘いに来てくれたよね。なんだか有神論者になりそうだよ。きっといいお兄ちゃんになってくれただろうなあ。合掌。



一人の小松サキョニアンとして


先に書いたように、私は小松サキョニアンである。「神への長い道」「虚無回廊」「果てしなき流れの果てに」など、進化や言語の進化を扱った作品が好きである.何度も言われていることだが、小松左京のすごいところは、その知識の該博さと、小説の語り手としてのバランスの良さである。虚無回廊の4巻を書いて欲しいものだが、それは、インタープリターという存在が出てくるからである。異星人の言語も地球人の言語と同じく、論理適制約に支配されているというのが鍵である。もちろんこれはチョムスキーのUGとは違って、UUG(Universal Universal Grammar)としか考えられないものだ。バクスターの"Time"には、整数の存在自体が生命の発現の根本的な理由になるというガイジンの発言が出てくる。 我らの脳は宇宙を全て理解できるのだろうか。チョムスキーなら答えは否であろう。チョムスキーの立場では、人間は人であることによって、すでに生物学的制約を受けていて、宇宙全体の理解には及ばないという発言をしている。数学はどうか。数学で宇宙の全てを記述できるのだろうか。これも、チョムスキーの「種の公理」によれば、出来ないと言うことになる。そもそもどうして人間に数学が扱えるのかが不思議だ。脳に数学モジュールがあるのだろうか?言語モジュールはかなりすすんだところまで解明されつつあるが、これまたチョムスキーによれば、数学は言語モジュールの応用だとされている。数学には大別して代数と幾何があるが、前者は言語モジュール、後者は視覚モジュールに端を発しているというのがチョムスキーの見解である。
いま、レイ・カーツワイルの「ポスト・ヒューマン誕生」を読んでいる。ここでは人間の寿命を数百年にまで延ばすことが議論されている。再生医療やコンピュータの助けを借りて、人間が「人間以上」になることの議論だ。大変おもしろいので、図書館から借りっぱなしだ。ワタクシ個人としては寿命が230年あればいいと思っている。いろんな勉強や仕事が出来るだろう.学位も生物学で取りたい。平均寿命が200年の時代がすぐそこに来ているのだ。有意義な人生が過ごせることだろう。さらに、200年後の医学によって、もっと生きることも出来るようになっているだろう。夢は広がるばかりだ。息子たちと共同研究が出来るようになれば最高だ。ニテケテ、パパは君たちが大学に入るのを待っているよ.一緒に勉強しようね。




またしても池田信夫氏の嘘

私は学生のころ一時、言語学を志したことがある。もともとは哲学に興味があったのだが、ソシュールやヴィトゲンシュタインなどを読むうちに、言語こそ哲学のコアであるという感じがしたからだ。当時は文科2類からはどの学部へも行けたので、文学部に進学することも真剣に考えた。しかし当時の言語学科は、チョムスキー全盛期で、その単純な「デカルト的」理論には疑問を感じたので、やめた。
脱力。池田さんはこのあとに、「今頃になってチョムスキーが輸入されるん日本の知的土壌がなんたら」と書いているのだ。池田さん、嘘はやめましょうや。もうまともな言論人からは相手にされていなくて気の毒だが、ディスプレイ前の無知層をだますのは犯罪ですよ。みっともない。哀れだ。もう言語学に関して発言するのはやめてね。チョムスキーの理論は「応用数学」なんかじゃないですよ。情けなくなってくるから、もうやめようね。
それから、論駁されたことを「悪口」とすり替えるのも辞めましょうね。いい大人なんだから。引用先にある「変質者」って誰のことかな?場合によっては訴えますよ。直ちに修正しなさい。



ニテケテショップをよろしくお願いします。

ニテケテショップを開いて4ヶ月になります。今まで二万円しか入っていません。どうかこれをお読みの皆さん、ニテケテショップをよろしくお願いします。小学生のお子さんをお持ちの方へ見合った商品を中心に扱っています。




大嘘つきの池田信夫について





いくつか上の引用で、池田信夫氏はソシュールやヴィトゲンシュタインを読んだと書いているが、どう考えても嘘である。ソシュールの記号の概念はおろか、共時態と通時態の区別も分かっていないし、ヴィトゲンシュタインについては何を読んだのか教えて欲しいぐらいのもんだ。著名な学者の名前を出して権威付けに使うのがこの人の特徴だが、どれも読んでいない。読んでいたら言えないはずのことを書いているからなあ。まともな知識人からは相手にされなくて当然だ。池田信夫で検索するとあちこちで嘘をついていることが分かる。池田さんってほんとに何やさんなの?職業、嘘つきじゃないよね、まさか。と書いたところで、愉快な記事を発見。ここです。池田様の恐ろしいまでの明晰さが記されています。






ナンシー関が生きていたならなあ




ダウンタウン松本がかつて「お笑いが分かる奴はみうらじゅんとナンシー関しかおらへん」と語ったいたことがある。同意。テレビに出る批評家でお笑いが分かっているのはあの二人だ。




ニテケテショップ三号店開店



ニテケテショップ三号店を開店しました。

ここはおもに息子と別れた妻に向けた商品を紹介していこうと思います。音楽、映画、バイク、自転車、望遠鏡、双眼鏡、顕微鏡、実験セットなどをご紹介するつもりです。よろしくお願いします。




巨星落ちる





小松左京さんが昨日亡くなられた。まさに巨星と呼ぶべき知の巨人だった。今思い返しても小松先生には本当に読者として鍛えられた気がする。博識でロマンティストで情に厚い方だった。
小松作品に出会っていなければ今の自分はない。好きな作品としては、「果てしなき流れの果てに」、「虚無回廊」、「アナログ・ラヴ」「お糸」、「神への長い道」などがある。「結晶星団」もそうだな。「くだんの母」を読んだのは小学生だったので、怖くてたまらなかった。

他にも数え切れないぐらい読んだ。
小松先生、ありがとうございました。 安らかにお眠りください。

青い鳥再考


豊川悦司のファンである。最高のドラマは「青い鳥」だと思う。もう50回ほどは見返している。テレビドラマなど見る習慣のないワタクシを何がそこまで引きつけているのだろう。キャストがいいのかな。豊川悦司、夏川結衣、鈴木杏、山田麻衣子、皆魅力的だ。(2014/03/12付記)豊川さんは本当にうまい役者さんだ。どんな役でもこなすが、一番いいのは「この世の縁から落っこちかけている」役だ。「愛していると言ってくれ」、「傷だらけの天使」、そして「青い鳥」。どれも豊川さんがこてんぱんの目に遭うほどにいい顔になる。「男たちの描いた絵」なんか芝居がうますぎてこっぴどく怒られたくなった。夏川結衣さんはこのドラマでブレイクしたし、鈴木杏さんは活躍中だ。山田麻衣子さんはこのドラマで女性からひどく嫌われてしまったが、とんでもない美女なのだ。今度DVDボックスを買うつもりでいる。また何度でも見返すつもりだ。


段あいかさんを応援しよう


段あいかさんを応援しよう。真の天才だ。モーツァルトの「きらきら星」がこんなにきれいに弾ける人は見たことがない。戦場のメリークリスマスもすごいもんだ。天才っているんだなあ。ワタクシはこの人を応援します。 これなんか小四の時の演奏だ。すさまじい才能だ。柔らかいタッチ、インプロビゼーション、曲想を完全に理解していないと出ない音だ。戦メリなんか12歳の時の演奏だ。天は二物を与えた。


自虐史観について



なぜ「自虐」なのか。こういうことを言う人は国家と自分を同一視しているとしか思えない。そもそも「自虐」というからには過去の国家と個人としての自分をイコールで結びつけているのだ。「反省史観」が適当な呼び名ではないだろうか。過去の過ちを「自虐」と呼ぶのは気持ちが悪い。大陸に軍隊が出兵された段階で侵略以外の何者でもない。